人は自分を認めて欲しいと願う生き物です。
家族の間でも、学校でも、職場でも、仲間内でも、夫婦間でも、自分の存在を尊重して、個人として認められたい。
認められたいと願っていて、認められた、認められていると認識、満足出来ない場合、それは何故だと思いますか?
それは、認められたい願っている事柄がはっきりしていないこと、非常にピンポイントでヒットしないというのが、よくある理由です。
事柄がはっきりしないと、誰から何を言われても、自分にはピンと来なくて、認められているという部分が満足しない。
例えば、認められたい部分がはっきりしていて狭っかたりする。自分が得意としている部分で認めて欲しいとする。仕事の進め方が早いとか、料理が上手とか、絵が上手いとか。
周りの人には、違う部分が光って見えていたり、素晴らしいと尊敬を集めていて、その部分を称賛されたとする。でも、自分がアテンションを欲しているのがその部分でない場合、謙遜しつつ、「私はやっぱり認められていないんだ」と意気消沈したりする。
そもそも論になりますが、私は「誰かに認められたい、誰かに称賛されたい」という願望を持つこと、期待すること自体を難しいけれど、そこを諦めることを進言します。
人の評価は、わずかなこと、様々なことに左右されるので、正直当てにならない。もちろん、自分の仕事ぶり、働きぶりを日々しっかりみていてくれて、的を射た評価をしてくれる人だってもちろん存在します。
でも、褒められなくなっていいではないですか。
自分がいかに情熱をかけて、そのものに取り組んでいるのか、どれほど頑張っているか、いつ怠けてしまうか、
そういう全てのことを常に隣で見て知っているのは、誰であろう自分自身なのです。
自己肯定感が安定しない人、揺らいでいる人、認めて欲しいと切望している人は、自分が何を期待し、何を認めて欲しいのか、どう感じるのは何故なのか。その辺りと向き合ってみると、大切な答えが見つかって、そんな欲望に振り回されなくなります。
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