魁くん、今回はお金というものと向き合ってみました。
お金は世界に存在する物質の1つであるけど、これほどまでに千差万別のイメージや印象を持たれているものも、人の思考、行動、状態に多大な影響を与えるものはないなあと思うの。
いい歳こいた大人が目の色変えて、時には悪いと考えられることにすら手を出してしまうのは、このお金が絡んでいることが多いよね。権力だの、他にも色々な要因はあるのはちょっとおいといて。
私はお金にどんな思い出やイメージがあるか、じっくりと自分の中を探してみました。
するとね、お金と、「家族」「父親」というキーワードがくっついていることが分かった。
大人になり、仕事をするようになって、お金の存在を意識するようになり持った感覚に「昔の父親と同じ年齢になったのに、同じくらい稼げてない!なぜだ!」というものがあったの。
私は女性であるのに、どうして母ではなく父を意識して、父と同じように稼げていない自分に落胆するんだろうと不思議でした。
父とお金というものが紐づいている理由、それは、お金に対して、若かりし頃の父の行動の免罪符のような意識を幼少の頃に私が持ったからだ。(家族の関係性に関しては、ホームページのAbout us にある「ー幼少の自分から 自己変容の道へのきっかけー」にいくらか記載があるから、自分の準備が出来た時に読むといいよ。)
父のことは、今、詳細を語る時ではないと思うので(プライバシーのこともあるし)ある程度はオブラートに包んで書きます。
幼少期や思春期の私からみて「誰かを傷つける、良くない行い」を「世間の人以上に稼ぎ、家族を経済的に潤わせている」ことで相殺しているようだった。
家族の大黒柱として大金を稼ぐことで、都合の悪いことへの免罪符になっているように感じていた。
父という人間が繰り出す愚行を浄化でもするようなお金という存在。でも、黒い色水に何かを漬けると黒くなるように、愚行によって色の付いたお金で生きている私は、自分も同じように色の付いた自分になるような気がしていたように思う。
父という存在とその行いが、関わる物の印象に多大な影響を与えていたのであって、私はお金というのれんの向こう側に居る、父という存在を否定していたのです。
でも、その「否定」という単一の行為は間違っていました。
私は思春期のある日、父だけではなく、母や姉弟に対しても、父、母などの「人生の登場人物的役割」というタグづけを止め、それぞれを1人の個人として捉えるように自分に変容が起こりました。
役割フィルターを除いて各々を見た時、何というか、どういう考え方や行動であれ、その全てがまるっとその人であるという風に考えるようになったのです。
各自の状態や個性、特性に個人的な好き、嫌いや、合う、合わないなどはあるけれど、そうであることこそが当然と思えるようになったのです。それには10年以上の歳月が掛かったけれど。
お金の話に戻すと、父の特異で、とても偏った側面だけをみて、そこを拡大して、父という存在そのものに作り上げて、彼を通過するお金に対しても偏ったイメージと感覚を持っていた私ですが、
父の生き方、特に仕事に対しての考え方、行動を知ることで、私が持っていたお金という存在が大きく変身しました。
父の慈愛ある日頃の生き方の循環が、お金の循環そのものでした。父から放たれた慈愛というエネルギーが、旅をして戻ってくる時、そのエネルギーは感謝や愛そのものでした。
お金自体の存在的質やエネルギーはとてもフラットなものです。そこにくっつくイメージが様々なだけなのです。
それに気がついた時、父との思い出や、幼少期の過去、自分の感情や思考、なんだか色々なものが変わったのです。必要なくなったものは剥がれて落ちて、流れていく、そんな感じです。
私とお金の関係性を変えたのは、この経験だった。
そして、私は魁くん、あなたには偏った考え方や印象でお金のことを語ることは無いと知って、本当に良かったと思ってます。
お金をひとつの物質としてどう扱うかは、自分との関係性をクリアにすることから始まると思いましたよ。
魁くんの役に立つエピソードであったらいいなと思います。
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