思うんですけど、 敵と思える相手がいる、追い越したい相手がいる、嫉妬する人がいる、 その状況ってある意味では「ありがたい」状況なんじゃないかなと。
ありがたいというか、「楽」。自分にちょっとラク出来る感じ。
誰かを敵対したり、攻撃対象にしている時は、正義感とか、妬みとか、
あらゆる感情が自分を焚きつける薪のような役目を一時的には持つことができるし、それを正当化も出来るし、それに「自分と向き合う」ということから目をそらすことが出来るじゃないですか。
でも、敵は存在しないということが分かってしまった時、 何か出来事が起きたとき、 それが身近なことでも、遠く海の向こうで起きていることであっても、 誰かを責めることは出来なくなる。
どうなるのかというと、自分と向き合うことになる訳です。 常に。
しかも、相手が誰であろうと、困難な状況にあったり、
辛い状況にあることに心が痛む訳です。どうにかしたいと思う訳です。
人種を理由にしてとか、国を理由にとか、政治を理由にとか、 責任を押し付けられる相手が「居る」と想定していると、自分の心が痛まない。
でも、実は世界の原理はそうではないということに気づいてしまうと、
誰かを責める構図が消滅してしまいます。
そうすると、今までのように、都合の悪いこと、世の中の不文律、
不公平をどこかの誰かの責任には出来ない。
そこには、必ず自分が介在していることが分かっていて、
その責任からは逃げられないことも知る。
これは、結構しんどい状態です。今までは自分には関係なかったこと、
自分にはみじんも責任がないと思っていたことがそうではなくなるからです。
でもこれこそが、真の生き方なんじゃないか、 そう思うようになる。
ここから、違う扉が開き始める。
以前よりも世の中に責任を感じるようになるのだけど、
世界の全てに繋がっていることが感覚として自分の中に存在するようになる。
今まで関係ないと思っていた人との繋がりがあると気づくと、
そのことに、ただただ、そのことだけに感謝や喜びが生まれる。
毎日がその連続になる。
存在だけに感謝していると、その人が何か役に立っているんだ、
その人のおかげで自分の何かが助かっているんだと思うと、もう感謝してもしても足りなくなる。
以前読んだ本の著者が「ある時から、世界のもの全てが『愛しているよ』と語りかけてくるようになった」と書いていた。
それがどんな感覚なのか当時は見当つかなくて、色々想像してみた。まるで不思議の国のアリスのような世界観を勝手に想像していた。「ものや生き物が口を聞き、語りかけてくる」って感じかなと。
でも、私の場合は、直接ではなく、周り回った感覚で愛を感じるようになった。
ものが喋りかけてくるのではなく、そのものをみると、それがもう「愛」なのです。そうか、こういうことなんだな。
愛って、常に正しさではない。
愛は苦悩も、愛しさも、慈しみも、時に憎しみも寂しさも悲しさも、全部ない交ぜになって、
その時々で様々な部分が突出する。
小室哲哉氏のこともだけど、法律にのっとったり、生まれた時からこの国にある「なぜか当然」のモラルを振りかざしたりして、ひどいとか、よくもそんなことが出来るとか、責められることじゃないんではなかろうか。と私の心は言うのです。
誰かの心や、痛みや悲しみからの行動、色々なことを受け止めること。
咎め続けたり、責め続けたりするのではなく、その人の苦しみすら、消失させてあげたい、
この人を抱きしめてあげたい、この人を笑顔にしたい、この人の周りも幸せにしてあげたいと想うことが、私は「人として生きる」ということなんじゃなかろうかと、最近常々想うのです。
中島 未来