私は以前、ずっと気になっていたことがありました。
それは「お墓に祈ったり、お仏壇に祈ったり、
そもそも自分の思いは、亡き人に届いているんだろうか?」
ということです。
この情報は、亡くなった人を大切に想っているけれど
なかなかお墓参りに行かれないとか、
御供養が十分だろうかとか、
自分の想いが亡き人に届いているの不安だ、など
気になっている方への朗報だと思います。
今日はそんなお話です。
*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:
<亡くなった方に、あなたの願い、祈りは確実に届いている>
私は結構長い間、自分の家系のご先祖のお墓参りにも
夫の家系のお墓参りにもなかなか行かれないということもあり、
常にある種の「罪悪感」に囚われていました。
親しい年上の友人に「先祖のお参りをしないと、家は栄えないよ」と
言われた時には「ドキッ!!!!!」としたものです。
もちろん、お墓に実際に足を運ぶのがいいとは思います。
でも、現在私たちが抱えているようなコロナ感染の脅威などがある場合、
行きたくても行かれない。
そんな時は、先ほどの言葉を唱える。
すると、自分の感謝の気持ちが、ちゃんとご先祖様に伝わるそうな。
しかし、ここにもまたひとつのハードルがありました。
「自分の故人への想いは、本当に届いているんだろうか」と。
初めから届いていると疑いなく信じている人もいるでしょうし、
半信半疑の人もいるでしょう。
私は、ご先祖様との繋がりをあまり感じていなかったので どちらかというと、御供養や他、色々なことに半信半疑だった方です。
でもせっかく祈るのならば、供養をするのならば、
「自分の想いが、亡くなった大切な人たちに届くといいなあ・・・・」と
結構真剣に願っていました。
想いは届いて欲しい。祈りも届いて欲しい。
そんな欲求を感じつつ、 心のどこかで、想いが届いているのかどうかの真偽を知りたいと
願ってもいたんだろうと思います。ちょっとした神への冒涜という スリルを味わいながら。
先日、何気なく図書館から借りた本の中に、こんな内容がありました・・・
主人公はとある、権威あるお医者様。
そのお医者様の講演を聞いて感銘を受け、医師になることを目指した
女子高校生と先生は、ひょんなことがきっかけで 時折電話で人生の話やたわいのない話をするようになります。
医学部入試に挑戦し、何とか合格をしたその女の子と
お祝いを兼ねて初めて会おうとしていたその当日、
数日前に事故に遭った女の子は、亡くなってしまいます。
女の子の携帯電話の履歴を見て、女の子の兄から
訃報の知らせの電話が先生に掛かってきます。 それから、女の子の兄から度々お医者さんに電話が掛かってくるようになります。
そしてある夜とうとう兄の身体を借りて、亡くなった女の子が
先生に語りかけるのです。
ある日の午後、先生は頂き物の「東京ばな奈」と、
これまた頂き物の静岡の新茶を御供物に、
女の子に語りかけ、冥福を祈ります。
するとそれから何日か経った夜、
また女の子の兄から電話が掛かって来ます。
暫くすると兄の声が途切れ、
亡くなった女の子の声に入れ替わり、先生との会話が始まりました。
その時、女の子が
「そうだ、この間先生、私のこと呼んだでしょ?それに、東京ばな奈
ご馳走様でした。東京ばな奈、私大好物なんです。本当に美味しかった」と口にし、
先生は驚きと共に、なんとも言えない気持ちになるのです。
「そうか・・・お供えのお茶と、東京ばな奈・・・・届いていたんだ、、、、
届いていたんだなあ・・・・」
この文章を読んだ時、私も言葉では説明の難しい初めての感覚が
自分の内側に生まれました。
なんというか、
心の中にとても明るい光が生まれて、
その光はこれからずっと自分自身を癒してくれるという確信。
これからの生涯、自分を癒し続けてくれる光の誕生を感じました。
そして、今までは半信半疑だった見えない世界との
確実な繋がりを確信したのです。
その時から、私の「お参り」への気持ち、姿勢が
根本から変わりました。
心に思い浮かべる相手との、確信のある触れ合い、
向き合う時間、心通わせる時間。
あの日から、亡くなった人は見えないだけで、
今も共にあるんだということが、信じられるようになりました。
いずれにしても、
「信じるか信じないかは、あなた次第です」的なお話なのですが、
本当の意味で、私には「人生を変えるきっかけ」になりました。
信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)
今日もお付き合い頂いて、ありがとうございました。
中島未来
Commentaires