人は、どの範疇の人に対してまで親切にすればいい、
快く対応すればいいと感じているのかな。
もちろん、人それぞれなんだろうけれど。
広ーく世の中を見ていると、自分の半径の距離に近い人にこそ快く、
優しく接することが常識、当たり前と考えている人が多くて
「親しさの半径」から遠くなればなる人にほど、丁寧さとか、温かさとか、
愛情とかを込めることが減って行く。
先日のスーパーでのこと。
お会計を待つ列の横に、アイスクリームのケースがあった。
その側に立つ一人の女性Aさんが。 新たにやって来た女性Bさんが「並ばれてますか?」と聞くと、女性Aさんは「アイスクリームを買ってるんですっ!(キッ!)」
私は近くに居ただけの出来事の輪の一歩外にいる存在。
その輪の外にいる私のそばの空を切るようなその強い語気は、
出来事の真ん中にいる女性Bさんには、もっと鋭く感じられたでしょう。
私の心は、女性Aさんにこう問いかけます。
「なぜ、そんなに強い言い方をするのですか?」
Aさんの心はこんな風にいうかも知れません、
「だって、見りゃわかるでしょ?私はアイスクリーム買ってんのよ」
「見たら、本当にそう判断できるんですかねえ。並んでいるついでにアイスクリームを見ているって、思うかも知れないですよね」
「それは、その人の勝手な思い込み。私はアイスを買ってんのよ」
「っていうか、そんな風に強い言い方をする理由は何ですか?」
「だから、見りゃあわかるからよ!」
「どうして、そんなに強い語気でいうんですか?」
実際のやりとりではありません。心での、想像のやりとりです。
この出来事の中に、女性Aさんが、それほどまでに怒る理由が、
実は存在しないと、私は感じました。
以前書いたのですが、人が怒る時、イラっとする時、本当に怒りを感じているものは実は違うことが多いのです。
そして2つ目に着目するのが
「相手がどんな関係性の人でも、同じような言い方をするだろうか」ということ。
私たちにはいくつかのパターンがあり、親しさの半径が近くなればなるほどその相手に感情ストレートに接する時、逆に優しく接する時、親しさの半径の遠い人にほどきつく接する時、逆に優しく接する時などが存在します。
私が表現したい大事なことってなんだろうかと言うと、
どんな接し方であれ、自分が相手にしている接し方が、
相手が自分にする接し方のベースになっているということなんです。
家族や友達など、自分に近い存在の人、
親しい半径の、より自分側にいる人に対しては優しく接する、
親しさが薄れる人にほど、ぞんざいな扱いをする、
すると、
自分が周りの人にするように、周りの人が自分に接するようになります。
まさかー!なんて思うかも知れないですが、
これは本当です。
そして、例えば「役所の人間は機械的で不親切だ」と思っていると、
役所の人は実際にそういう態度で接して来ます。
自分の信じている信念が、現実を創るという宇宙の法則です。
自分の接し方が現実を創るのも同じ法則です。
これはもう、信念とか概念を通り越して、
無意識の域に浸透した、自分の信念による無意識な行動です。
自分がどんな信念や概念や常識という枠組みを持っているかは、
自分の行動を分析して、心に聞いて確かめる方法を使わないと
なかなか確認したり、見つけることが難しい。
親しい人にだけ親切にするという「行動」も、
親しい人にだけ親切にすればいいという自分の中にある
観念や信念に基づいたものです。
現実を変えるには、自分の行動を変える必要があり、
行動を変えるには、概念や信念を変えるしかないのです。
スーパーマーケットでの顛末で面白いなと思ったのは、
人に親切に接することを惜しむ人ほど、人には親切に接して欲しいと思っていること。
自分の概念と行動が現実を創ると分かったら、人はどのように行動が変わるのでしょうか。