痛みを伴う学びの深部には、やっぱりちゃんと愛ががっちりと据え置かれていて、気づきと理解と、痛みに対する癒しという処方が行われる。
どんなに嫌なことをするとんでもないやつでも、気づきのために顔突き合わせて役柄を本気で演じてくれていたんだという全体像が見えた時、本当の意味での「感謝」がむくむくと湧き上がって来て、涙で痛みが洗われる。
相手との出来事が長い時間を要し、痛ければ痛いほど、気づきという場所に立てた時、心の洗われ方が違う感じがする。
痛ければ痛いほど、自分の心の成長の糧になる。お互い様で、相手にとっても同じような学びの機会でありますようにと心から願う。
ここまで来たら、あとはもう完全な安心が自分の中にも外にも充満する。
出来事の表面に翻弄されてしまうのは、至極当然で当たり前のこと。それが学びだから。
当事者が自分だったり、自分が大切に感じている人であればあるほど、出来事が与えてくる影響も大きい。私は今回、直接の当事者じゃなかったけれど、今までに無かった感情の深い部分を突かれたり、引き剥がされそうになったり、結構なぐちゃぐちゃ度合いだった。
こういう形で自分の中で終止符が打たれるとは想像もしていなかったけれど、今日、目の前に広がる日常であるはずの景色の明るさが全く昨日までとは違う。
心全体を強く掴んで離さなかった緊張というか、硬さが取れて、ふかーく息が吐ける感覚。
そして、学びの協力者への感謝の気持ちが心の中を、安心などとまぜこぜになって満たしている。
もし、ずっと長引く問題や心配がある時、持っている本を読み返したり、外に散歩に出かけてみたり、瞑想してみたり、直接解決に関係なさそうなどんなことでもオススメします。
必ず気づきがやって来るから。
怒りや恨みを持っていることに、人は必ず罪悪感などの痛みを伴うけれど、それも否定したり、誤魔化したり、無いふりをしないで、抱きかかえてあげることが、本当に大事なコツです。
気づきがくれば、必ず怒りも恨みも融けて消えていく。